行政書士赤堀昌治事務所
静岡市清水区で東奔西走の行政書士です。在留資格などの外国人サポートや遺言・相続などでお困りの方はお気軽にご相談ください。

事務所代表赤堀昌治のプロフィール

はじめまして。
「行政書士赤堀昌治事務所」代表の赤堀昌治と申します。
当ホームページにお越しいただきありがとうございます。

 

[プロフィール]
[誕生]
⦁1965年5月 東京オリンピックの翌年、静岡県清水市(現在の静岡市清水区)に産声をあげる。

 

[小学生時代]
⦁1975年4月 清水市立有度第一小学校 入学
⦁ウルトラマン、仮面ライダー、タイガーマスクが大好きで毎日ヒーローになりきって一人戦闘に明け暮れていた。
⦁高学年になるとなりきり一人戦闘からスポーツ個人競技へと変化して、市内の体操大会では鉄棒の選手に、陸上競技大会では走り高跳びの選手として学校代表に選出されるようになりました。特に走り高跳びでは当時の担任の先生が体育の先生ということもあり、とても熱心に指導をしていただいたおかげで実力以上に成績を伸ばすことができました。この時の教訓として、諦めずに努力し挑戦することで自身の記録を超えることができるという自信と喜びを教えていただきました。この経験が今の自分自身の人生の基礎となっています。

 

[中学生時代]
⦁1978年4月 清水市立第七中学校 入学
⦁「巨人の星」を見て星飛雄馬に憧れ野球部に入部するも、半年もしないうちに、やはり自分は団体競技に向いていないことに気づき退部。そして中学校も荒れていた時代です。「あしたのジョー」の矢吹ジョーのように強くなりたいと思いボクシングジムに通い始めました。その甲斐あってか3年間、不良に絡まれることなく無事に中学を卒業できました。我ながら危機管理能力みたいなものが本能的にあったようです。
紆余曲折ありましたが3年生の時は、清水市陸上競技大会に走り高跳びの選手として学校代表となり、優勝こそ逃しましたが同記録で2位という結果を残すことができました。
⦁その一方でこの頃からギターを弾くようになり、当時流行っていたアリスや甲斐バンドのバンドコピーを学校の文化祭で演奏したりもしました。私はボーカルギターを担当しました。 今でも趣味で続けています。

 

[高校生時代]
⦁1981年4月 東海大学付属工業高等学校 入学
⦁高校では陸上部の部長を務めました。
⦁部活の仲間達と共に汗を流し、良き思い出を作ることができました。
⦁青春時代ですから遊ぶことにも一生懸命でした。バンドブームでしたから、RCサクセションやハウンドドッグなどのコピーをしていた先輩達のバンドに誘われ、私もボーカルとしてライブ活動などをしていました。

 

[東京ひとり暮らし時代]
⦁1984年4月 拓殖短期大学入学
⦁両親は細々と自営業を営んでおりましたが私を進学させてくれました。あまり両親に負担をかけたくなかったので、私なりに考えて昼はバイト夜は学生というスタイルにしようと思い拓殖短期大学に行くことにしました。ところが入学後しばらくしたらバイトが楽しくてすっかりハマってしまいました。
⦁バイトは人生経験そのものでした。印刷会社での図書の出荷や飲食店での接客、電話会社での各部署へのメール仕分け配送など。学生でありながらも社会人として働くことで勉強になることが数多くありました。またそこで出会った人たちは、学生でまだ未熟な私に対してとても優しかったことを覚えています。大人になった今では私自身も人に対して優しくありたいと思っています。

 

[社会人として]
⦁1986年4月~ 自営のクリーニング業勤務
⦁地元清水へ帰郷して自営のクリーニング業を手伝いました。そこで飛び込み営業も経験し、お客様から信頼をいただいてお仕事のご依頼をいただくことの難しさやご依頼をいただいた時の嬉しさ、仕事を達成した時の満足感などを知ることができました。
⦁1989年5月~ 教材販売の団体職員
⦁縁あって教材販売の団体職員としての勤務が決まり、ルート営業をすることになりました。今までとは違う客層や取扱商品に戸惑いもありましたが、なんとかスキルアップしていくことができました。そのうえ団体組織としてメーカーとの折衝や商品開発などにも参画することができ幅広い人脈もつくることもできました。
⦁しかしながら教材販売は少子化の影響を真正面から受けることになり、やがて経営危機に陥りました。やむなくリストラが行われ、私も29年間務めた職場を去ることに決めました。

 

[転職]
⦁2018年7月~ タンクローリー乗務
⦁転職のことを考えると不安が大きく押し寄せました。すでに家族もいましたし。年齢も既に50歳を過ぎていました。残念ながら手に職はなく、つぶしが利かない状態でした。これまでは幸いなことに「資格」というものにはまったく無縁で生きてくることができました。しかし・・・・
⦁ここはひとつ資格を取るしかない。そんな思いに至りました。必死に考えましたが時間的な猶予もありませんでした。なるべく短期で取得できそうなもの、すぐに仕事に繋がりそうなものにしなければなりません。そして車の運転にはそこそこ自信があったので、タンクローリーに乗ろうと決めました。そこからは激闘の日々が続きました。まずは危険物取扱者乙四です。合格率は30~45% もちろん仕事をしながらで、しかも人生久々の勉強ということで脳みそから変な汗をかきそうでしたが、必死に勉強しました。その甲斐あって一発合格することができました。
⦁それから大型自動車免許取得、けん引免許(トレーラー)取得。フォークリフト技能講習修了と資格取得に励みました。そして今の会社に転職することができました。まずは一安心でした。

 

[難関国家資格への挑戦]
⦁2024年1月 58歳で行政書士試験合格
⦁かつて走り高跳びに夢中になった「いつかの少年」が今度は難関国家資格に挑戦し、その資格で仕事がしてみたいと考えるようになり、夢中で勉強を開始した。真っ直ぐに見つめるその瞳の先には自分の背丈よりも高いバーが横たわる。そのバーを背面からギリギリの高さで超えていく。そんなイメージを描きながら「いつかの少年」は助走の一歩をここに踏み出した。
⦁行政書士試験の受験資格には「年齢、学歴、国籍問わず、だれでも受験できる。」とあります。この受験資格を見て、なんて懐の深い男前な資格なのだと思いました。そして合格基準は試験全体の得点が満点の60%以上。合格率は10%ほど。つまり10人のうち合格できるのはたったの1人、残り9人は悔し涙の難関資格です。しかし直感として、なんとなく自分も合格できそうな気がしました。根拠のない自信というものです。男性ホルモンがそうさせたのかもしれません。が、しかし挑戦してみると、そんなに甘いものではありませんでした。法律のホの字も知らない人間が立ち向かうには、ちょっと相手が強すぎました。奥歯ガタガタ言わされました。憲法?民法?行政法?なにこれ問題の意味がわからない。これってほんとに日本語なのか?みたいな。そんな負けそうになる気持ちを前向きにさせてくれたのはドラえもんでした。「人にできて君にできないことはない! byドラえもん」諦めずにやり続ける人が最後は勝つのだ。とドラえもんは教えてくれました。やるしかありませんでした。必死に毎日の勉強を習慣化して過去問を何回も回し複数の予想模試をこなして時間の許す限り合格のためと思えば何でもやりました。本試験当日は残念ながら自己評価として満足な結果は出せませんでした。合格点は180点、自己採点では記述以外で152点、あとは記述の結果待ち。不安な日々を幾星霜過ごしました。合格通知が来たのは1月末のことでした。ドキドキしながら見てみると、合格の二文字! バンザーイ!! 走り高跳びのイメージ通りギリギリで合格ラインを越えることができました。

 

[ スタートライン]
⦁行政書士の仕事は困っている人の悩みを解決すること、「人助け」が仕事です。そんな素敵な仕事ができる行政書士になるためのスタートラインに念願叶って立つことができました。これまでの人生経験を無駄にせず身近な街の法律家として皆様のお役に立てるよう頑張ります。かつてヒーローに憧れていた「いつかの少年」が、今度は貴方のヒーローになれますように。

 

[ その他の地域活動]
⦁2013年 三保第二小学校PTA会長
⦁2014年 静岡市PTA連絡協議会理事
⦁2015年 地元町内の自治会長